結 言 |
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【一】岡本氏の歴史は遠く承和年度(皇紀一四九四年)の橘逸勢事件の頃より世に顕れ、同事件の軍功 |
によって近江の岡本郷に封ぜられ、後に天慶の頃(皇紀一五九九年)に藤原純友の反乱に際し、征西 |
将軍小野好古に従って、石見に入りて那賀郡今福に土着し、同地にて郷長又名主として土豪生活を続 |
くること約六百年、戦国時代に入りては元亀年間に毛利家の麾下に属し、其の戦功によって近村の後 |
野名及び大迫名を給与せられ、今福の岡本家は長男に継がせて後野名に移住し、其の後更に一家相続 |
上の都合により大迫名に別家の岡本家を建て、後野名の岡本家が爾来徳川時代及び明治時代を経て現 |
在までも繁栄して来た跡を論述したのである。 |
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【二】岡本氏が石見に入国して以来、元亀天正の戦国時代に至るまでの六百年間には幾多の公的私的変 |
遷が同家の周辺及び内部に起こったであろうが、同家記録に関する限り、此の間の事実は殆んど明ら |
かにされ得ない。此の点に於いては同家一千年の歴史上にも大きな溝渠が存在する訳であるが、之は |
併し敢て同家のみに限らず、一般日本経済史の中世紀が空虚になっているのと相通ずるものである。 |
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【三】徳川時代に於いて岡本氏が浜田藩の一庄屋として忠誠を尽くし、其の功を賞ぜられて苗字帯刀御 |
免又は城礼格三席の待遇を認められたのは岡本家が古き由緒ある家柄であることの外に、同家の有す |
る経済力を以って藩の財政に寄与したのを嘉賞せられたものに外ならぬ。岡本家は其の家歴一千年を |
誇る名族であるから、徳川時代に至り何も藩主より苗字帯刀御免などの認めらるゝ必要はないかのよ |
うに考えられぬでもないが、併し徳川時代の藩主に取っては藩内の旧家は単なる一個の土豪に止り、 |
何等其藩との間に因縁関係が存する訳でもないから、件の土豪が何かの形式もち忠誠の意を表しない |
限りは、一個の庶民たるに過ぎない。其処で家歴あり、資産ある地方の土豪は争って新藩主に対して |
精神的、また物質的忠勤を尽くして身分的優遇を受けんとしたのであるが、同家、岡本氏に於いても |
斯かりで、時代的潮流の中を巧みに泳ぎ来た跡がみゆる。 |
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【四】会て戦陣の間を馳駆し、其の功によって後野「名」と大迫「名」とを恩給せられた岡本氏を法制 |
史的に考察する時、岡本氏の得たる其の土地の所有権であったか、又は年貢徴収権であったかと云う |
に、岡本氏が其の与えられた名内の空閑地を自由に開墾し得たことや、旧来住居した小作人から時代 |
に於いて既にこの土地を「岡本孫太郎抱へ」として書き上げ、租税徴収の目的とせられたこと等から |
推測すれば毛利氏より恩給せられた此の「名」は私有地として岡本家に授与せられたものに相違ない |
と思われる。唯元亀年代の頃に於ける後野「名」と大迫「名」とが全くの空閑地であったか、又は既 |
に若干開墾せられて農家の住居する者があったか否かが問題とされるのであるが、若し農家の在住し |
た者があったとすれば、其の農民は自作農であったか、小作農であったか、そして自作農であったと |
すれば当該農家は岡本氏の入地することで所有地を奪われて新たに小作農となった結果を生じ、小作 |
農であったとすれば、其の小作地を所有する名主を駆遂した跡に岡本氏が代わって入地したものと解 |
せねばならぬが、岡本家所蔵の記録に関する限り、その辺の事情は正確に説明され得ないのである。 |
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【五】後野岡本家の元祖岡本俊綱の子俊氏が吉川家の重臣服部次兵衛の娘を娶った関係から、吉川家と |
岡本家が徳川時代より明治時代を経て今日に至るまでも主従関係を持続して来ていることは、吉川家 |
が其の功臣の遺族に対する眷顧の情の細やかなるものあるを語っている。而して此の服部次兵衛が関 |
ヶ原の大戦最中に東軍たる徳川勢の大勝利を誘致した彼の毛利家内応の密使を勤めた者であると云う |
史実は、岡本家が其の血統に於いて近世中央史と相通ずるものあることを証明して感慨深いものがあ |
る。 |
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【六】徳川時代に入って、地主生活を始めた岡本氏は其の「名」内の隷農を慰撫し、督励して同家農業 |
生産力の維持発展を図った。若し「名」内の小作人が、普通の所謂「地借り小作」であったならば、 |
「名」の経済を維持する為の地主の負担は僅少にして済んだであろうが、其の小作制度が隷農的なる |
株小作制度であった為に、岡本家は小作人の家屋建築から農具其の他の生活手段に対して一切の指導 |
斡旋をしなければならなかった。其れ程に小作人の経済生活が地主に依存していたから、地主の負担 |
は之が為に増嵩すると共に、小作人の身分的地位も随って低下し、他の一般小作人とは比較し難いも |
のとなっていた。 |
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【七】石見地方に於いては「名」の名称下に田畑山林宅地を包含する集団土地所有制が今尚行われ、之 |
を株地と称し、株の儘で売買譲渡せられ、小作の場合には此の集団制の儘で小作に懸けられ、之を株 |
小作と称する習慣が徳川時代から明治時代を通じて行われたのであるが、今となっては唯株小作制度 |
のみ広く行われ、其の株小作地が由緒ある支配下に在る例は岡本氏外二三あるのみである。其の中に |
就いても確実なる資料を所有するのは岡本氏だけである。 |
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【八】中世に於ける「名」には概ね其の開発者の名が冠せられて、或は重平名とか田中名とか云われて |
いたが、今岡本氏が有する「名」を岡本名と呼ばないのは、惟うに岡本氏が元亀の頃、入地した時に |
は既に後野名の名称の下に若干開墾せられて居り、其れを岡本氏が給与したのであるから、岡本氏を |
「名」の名称としなかったのであろう。 |
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【九】岡本家の小作制度に伴う最も特殊なる慣習は、手間年貢制度である。別に又「水役(みずやく)」 |
とも呼ばれ、岡本氏の所有地のみならず、同地方の株小作制度には一般に行われていたのである。併 |
し一部の地主は近年に至り之を廃止して普通小作料中にし廃滅せしめたものもある。手間年貢は元来 |
此の地方の株小作全部に付随して居ったが、岡本家には其れが今日まで比較的濃厚に残っているので |
ある。 |
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【十】「名」と云う土地制度は中世農村に最も広く行われ、其れが近世末期に至り崩壊の一路を辿った |
が石見地方には比較的遅くまで其の残骸を留め、唯特別の場合には其れが明治時代まで持ち越され、 |
現在に及んでいる状態であるが、岡本氏の如きは同地方に於ける「名」の行きた史実を当代残せるも |
のとして後世に伝うるに足ると思う。 |
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