【日本歴史大系33 島根県の地名】ほか参照 |
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下府村の東に位置し、東は佐野村、北は上府村。ほぼ東西に通る石見安芸道は、黒川 |
村境「一の渡瀬」から上ヶ山、辻堂を経て江坂ノ垰から佐野村に至った。 |
辻堂には浜田藩主の休憩所である茶屋があった。 |
中世には、良万別符 後野名、大迫名が成立していたとみられる。 |
元暦2年(1185)6月日の源義経下文(益田家什書)に益田知行伊甘郷小割名、石見に |
須本村、良万別符等がある。 |
当地は伊甘郷や小石見郷、佐野別符が境を接する処で、後野名と大迫名が独立所領か |
は不明。 |
当地両間が遺称地とされ貞応2年(1223)3月日の石見国惣田数注文良万別符に「りや |
うまん1丁4反3百ト」とある。 |
永和4年(1378)12月3日の所領注文写(岡本家文書)に「二百卅文うしろの」や「四 |
百六十六文大さこ名」等とある。 |
文明12年(1480)10月26日の岡本定信知行地注文写(岡本家文書)には、小石見郷の |
「つしたう名」や、明応5年(1496)3月2日の 岡本貞盛文置(岡本家文書)に「りや |
うま孫四郎名」、否定説もあるが否は不詳。 |
天正17年(1589)4月5日の某氏意書下写(岡本家文書)によると後野と大迫の両名が |
岡本俊綱に預け置かれた。同年と推定される2月晦日の 桂春忠書状写(岡本家文書) |
には大迫名と大廻名を記す。 |
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後野岡本系譜(県立図書館蔵)によれば、本姓は藤原氏とされ天慶4年(941)近江国 |
に興り、10世紀中頃に祐顕・正信兄弟が石見国府に来住して、兄の祐顕は石見国府に |
残り石見国大祭天石門彦神社(通称三宮神社)の神職となった。後に国人領主化して |
嘉吉 3 年(1443)には岡本出雲守信貞が三子山城を築城した。戦国期には福屋氏に従 |
い、毛利氏の福屋氏攻略後は毛利氏の傘下に入った。江戸時代末期、石見国那賀郡七 |
条村庄屋の岡本甚左衛門は祐顕の遠祖でもある。 弟の正信は今福に所領を得て国人 |
領主化し益田氏や三隅氏に従った。戦国時代には、岡本恒数や子の俊綱は所領の近い |
石見吉川氏を通じて毛利方に従って軍功を挙げ、後野名・大迫名を与えられて、俊綱 |
自らは家督を長子の綱邦に譲り後野へ移ったという。毛利氏が関ケ原の戦いに敗れ、 |
吉川氏も周防国岩国に移封されると、俊綱は所領であった後野で帰農し、其の後、俊 |
綱の子俊氏は、旧岡本家を二分して大迫名に別家の岡本家を建て、後野名を長男の俊 |
次に与え、次男の綱次を伴なって大迫名に移り隠居したと云う。爾来、後野名の岡本 |
家は徳川江戸時代・明治時代を経て大正・昭和時代に至る。 |
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