石州後野(  うしろの)んやんや集めた
ふるさと 石見
後野広浜街道 歴史の道 
浜田藩主参勤交代
浜田広島街道は、浜田藩の参勤交代の道。〝お江戸日本橋七ツ立ち〟と歌にあるように
浜田藩主参勤交代も大手門からの出立は早朝七ツ頃(午前5時前後)で江戸まで概ね
ひと月余の旅路、約10里(4㎞/h程)の初日であったと云う。
県教委発行 島根の古道 参照
13 街道は、この辺りで川向こうの三宮を背に上ると、浮彫りの地蔵二体ある県道5号線。
14 民家が数軒並ぶこの一帯を「虫ヶ谷・二軒茶屋」と云った。二軒の茶屋があった。
小さな橋があるこの辺「一の渡し」と云い、ここで上山川を渡り山の斜面を登る。
15 榎ヶ垰には地蔵堂と元治元年建立の泰雲院殿石碑がある。近くに喉の渇きを潤す湧き水ある。
16 民家辺りの小字を一里塚と云い、浜田城下から最初の一里塚があったと云われる。
17 昔合戦の時に武将が血の付いた刀を洗ったと云う洗川を渡る。
県道5号 明治の頃にこの辺りで馬の転落事故があり、慰霊のため建立された馬頭観音がある。
コンクリート階段を登った林の中に旧道。石畳があったとも云われる。
18 三本の松があり、茶屋もあったと云われる。藩主一行の最初の休憩場所。
19 小学校の近くには地蔵菩薩が一体ある。
県道5号線に出て教員住宅跡地横の脇道をのぼり、江坂垰までの旧街道。
20 江坂垰は通称江坂の辻とも呼ばれ、下府方面から七条へ向かう旧街道と交差する。
21 細長い谷間に開けた両間(大迫名)の集落は、どこか里山の風情が漂う。
22 浜田藩領後野村と津和野藩領佐野村の境界、岩手口。
昔の道は県道5号線左下に流れる川の北側にあったが、今は薮に覆われ通行できない。
23 旧道の面影が残る三叉路には地蔵菩薩が二体ある。
24 元禄十年(1690)津和野藩が町屋作りを許可し街村があったが、明治の火事で離散。
25 通称ダンゴ坂と呼ばれるこの坂のは石畳がよく残っている。
(後野松寿会講演資料を参照)
土 居 城・高手山城
小野武夫著 日本兵農史論 第三論巧 石見に於ける『名』の遺制 (岡本氏に関する研究書籍)
城主 岡本式部少輔土居城跡   浜田ジャンクションから眺める高手山
後野町が「後野名・大迫名」と呼ばれた時代より昭和34年12月23日まで存在した 高手山は、浜田城山や城山下の国道9号線、浜田バイパスからも確認することが出来る
県教育委員会の調査報告書には、後野の高手山城、その近隣に点在する正連寺山城や、三ツ子山城、
潰城、小山城なども城郭調査結果が掲載されている。 
高手山城跡 高手山々林 明確な遺構なく所在不詳
正連寺山城跡 正連寺山々林 丘陵頂部 郭・腰郭
潰城跡 山林 丘陵先端
小山城跡 明確な遺構なく所在不詳

  10世紀中頃、 岡本(生地・近江国浅井郡岡本郷の藤原氏)祐顕・正信の兄弟で石見国 国府に来住。
  後に、 祐顕は神主家(三ツ子山城跡・三宮神社)の祖となる。
  正信は今福に土着し、 正信五世恒数の子 俊綱は、戦国期の天正17年4月、福屋攻めで
  吉川氏を助けて軍功を挙げ、 後野・佐野・来原の荘官に任ぜられたと云う。
  俊綱自らは、家督を長子の綱邦に譲り、後野の土居城に移った。
  其の後、 俊綱は後野・大迫名内の開墾に尽力。 俊綱の子 俊氏は、長男の俊次に後野名を与え、
  次男の綱次を伴なって隠居し、旧岡本家を二分して、大迫名に別家の岡本家を建た。
  爾来、後野名の岡本家は、徳川時代・明治時代を経て昭和時代に至る。

 岡本俊綱は、近世後野村庄屋や伊南村、浜田市の要職を務めた岡本家(屋号・薮土居)の初代。
石見軍記に「土井城」と記される岡本家屋敷は、昭和34年12月の火災で焼失した。
焼失を免れた門は黒川町に、土蔵は宇津井町の河上家に移築されて、
土居城跡地は、浜田道 後野トンネル工事により埋立てられた。
県道5号線 バス停 『薮土井』 の傍に往事を偲ばせる墓所がある。
     後 野 【日本歴史大系33 島根県の地名】ほか 
 黒川村の東に位置し、東は佐野村、北は上府村。
 ほぼ東西に石見安芸道が通る。
 同街道は黒川村境の「一の渡瀬」から上ヶ山、辻堂を経て江坂峠から佐野村に至った。
 辻堂には浜田藩主の休憩所である茶屋があった。
 中世には良万(りょうまん)別符、後野名、大迫名が成立していたとみられる。
 元暦2年(1185)6月日の源義経下文(益田家什書)に益田知行伊甘(いかみ)郷小割名、石見に須本村、万良別符などがある。
 当地は伊甘郷、小石見郷、佐野別符が境を接する処で、後野名と大迫名が独立所領かは不明。
 当地両間(りょうま)が遺称地とされ、貞応2年(1223)3月日の石見国惣田数注文に良万別符は「りやまん1丁4反3百ト」とある。
 永和4年(1378)12月3日の所領注文写(岡本家文書)に「二百卅文うしろの」や「四百六十六文大さこ名」などとある。
 文明12年(1480)10月26日の岡本定信知行地注文写(岡本家文書)に小石見郷の「つしたう名」、
 明応5年(1496)3月2日、岡本貞盛文置(岡本家文書)に、「りやうま孫四郎名」、否定説もあるが否は不詳。
 天正17年(1589)4月5日の某氏意書下写(岡本家文書)によると、後野・大迫の両名が岡本俊綱に預け置かれた。
 同年と推定される2月晦日の桂春忠書状写(岡本家文書)には大迫名と大廻名を記す。
 後野岡本系譜(県立図書館蔵)によれば岡本氏は近江国浅井郡岡本郷に興り、10世紀中頃に祐顕・正信兄弟が石見国府に来住し、
 祐顕は神主家の祖となり、正信は今福に土着したという。
 戦国期に今福の俊綱が毛利方に従って軍功を挙げ、後野名・大迫名を与えられた。
 俊綱自らは、家督を長子の綱邦に譲り後野へ移ったという。
[中世] 後野名
 戦国期にみえる名田名。石見国那賀郡のうち。
 天正17年4月5日の「岡本家意証文」(岡本家文書・新県史資料編Ⅰ)に「後野・大迫両名之事禄々永代預置候」とある。
 「旧県史6」によれば、これよりさきの弘治・永禄の頃、岡本俊綱は福屋攻めで吉川氏を助け、功ありて後野・佐野・来原の荘官に
 任ぜられたという。
 後野名と大迫名はともに那賀郡後野(現後野町)にあり、後野名は黒川村、大迫名は佐野村に接していたと推定される。
[近世] 後野村
 江戸期から明治22年の村名、那賀郡のうち江戸期を通じて浜田藩領。原井組に属す。 
 村高は「石見国高郷村帳」では360余石、天保郷帳では458余石。 
 金口神社、大佐古八幡宮(大迫大明神)、辻堂大元神社の3社を、大正6年に合祀して「伊南神社」とした。 
 臨済宗慈雲寺は応永年間の開創、寺領4石5斗。 
 広島街道は、黒川村一の渡瀬から上ヶ山峠、江坂峠を経て佐野村境岩手口に向かう。 
 この道は浜田藩主の参勤交代道で、字辻堂に藩主の休息場があった。 
 上ヶ山に元治元年の泰雲院殿(甘藷栽培の恩人井戸平左衛門)碑あり。 
 明治初期の戸数は156、人口803、牡牛101、牝牛1、牡馬4(皇国地誌)。 
 同7年、もと郷蔵に後野小学校を開校。 
 同22年戸数153、人口811、同年那賀郡伊南村の大字となる。 
土 居 城  城主 岡本式部少輔
 藤原氏 岡本祐平 孫 祐顕・祐貞(正信)天慶4年 石見に来り。
  五世 岡本恒数 子 俊綱
 城主・岡本與三左衛門。
 其先は大中臣氏より出て慶応乱の時、小野好古の命に依りて石見に下れりと伝う。
 鎌倉幕府紀小石見郷士に岡本某あり。
 室町幕府記には三宮の神職岡本氏、土豪を以て顕われ、
 割據時代となるや三宮三子山城主として石見豪族に数えられたり。
 與三左衛門は、此れと同族にして今福に居りし者、毛利氏に仕へて戦功あり。
 後野 大迫両名を給せられ、移りて後野に住めり。
 殊に吉川氏の寵を受け二男千鶴を元春の元氏より太郎と改名せしめられし程なりしが
 烔眼なる岡本與三左衛門は大勢を達観して、断然剣を投じて農に帰し、開拓を事とし、
 以って子孫永遠の策を建てたり。 (那賀郡史参照) 石見軍記
正連寺山(しょうれんじさん)    ・    城平山(じょうびらやま)
 正連寺山城  三ツ子山城(三宮)の浜田川対岸、要害山に有り。
 城平山城城  高平山の続きに有り。
 浜田の歴史と伝承   史跡探訪会(山藤 忠 / 河田竹夫)著
日本史年代
飛鳥時代 (592→) 奈良時代 (710→) 平安時代 (794→)
鎌倉時代  (1185→) 南北朝時代  (1333→) 室町時代 (1392→)
戦国時代  (1491→) 安土桃山時代  (1573→) 江戸時代 (1603→)
明治時代  (1868→) 大正時代  (1912→) 昭和時代 (1926→)
平成時代   (1989→) 令和時代  (2019→)
元 号 一 覧
     後野のあゆみ  鎌田廣一 著               後野からの転出者の消息  鎌田廣一 著
伊南村史
伊南村は1889年(明治22)4月1日、後野村・宇津井村・佐野村を合せて設置された。
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