ふるさと      
石州後野
  孫の神と牛の神 
むかあし、 とても しんぼうな 「孫作」 ちゅう百姓が後野におったんげな。 
そのこら どこの国でも戦をしおって、 
ここ後野でも、 しょっちゅう武士が殺し合いをしとったんだげな。 
そがなある日、 
いつものように孫、牛をひいてシロカキに出かけるんで、 
みんなが、 
まだ武士らが、 じょうびら山におるんで 危なけえ止めるよう言うたが 
孫作 
「戦、 武士らがする嵐のようなもんで、 わしらにゃ関係なことよ」
と、 田圃へ出かけたんだげな。 
そいだが、 じょびうら山にゃ、 みんなが言うたように、 武士がおって
どが見間違ごおたか、 孫作と牛の姿見ると
 「ワ~ッ、 敵だ~」 っと 
そりょう知った孫作、 たまげて田圃から逃げ出すと
じょうびら山にノロシをあげ、 一斉に矢をつがえて射ち始めたげな。 
山の上から見とった武士ら
「敵ゅう 逃がすな~」 っと 
いよいよ激しゅう矢を射ちだて、 その一本が孫作の背中に突き刺さり
つぎゃ、 牛にも当たって倒れると 
じょうびら山の武士たちゃ、 鬨の声をあげて山を下って来たんだげな。 
ところが、 近こ寄ってよう見ると、 百姓と牛が死んどったんで
がっかりして山へ引き上げて行ったんだが
その晩のこと、 じょうびら山の武士たちにゃ、 孫作のタタリでもあったんか
一晩のうちに、 敵方の武士に、 みな射ち殺されてしもうたげな。 
その後、 その辺のみんな、 気の毒に思もおて
災難におおた孫作を 「孫の神」 ちゅて呼び
百メートル走って倒れた牛を 「牛の神」 ちゅて呼んで
祭りをあげとったんだげな。 
そがして、 孫の神のところにゃ、 桜の木ゆう植え
牛の神のところにゃ、 椨の木ゆう植えて
戦のある時にゃ 「徴兵避けの神さん」 として拝がんどったんだげな。 
そがな訳を知ってか知らでか、 その辺のもんは 今も毎年
浜田から八幡さんの神主さんを呼んで、 祭りゆうしてもらっとるんだと。 
※先頃の農地整備で田んぼ脇の林の中に移転された二つの神様。どちらが孫作かは不詳。 
 
  慈雲寺山の〝とうごう岩〟上佐野バス停辺りからの写真  慈雲寺山㊧/㊨城平山(鉄塔あり)
 後野にある慈雲寺山には、むかし〝とうごう岩〟と言う大岩があり
 この岩の上には、権現さんの祠があったと言う。
 この権現さんは、はじめ海の方を向いていたが
 しばしば沖を通る船は、その度に船を止め、帆をおろして挨拶しなければならず
 困った人々は、権現さんを海を背に、東向きにしたと言う。
 また、この権現さんには弟子の天狗がおって、悪いことをした者を
 さらって逃げると言われていた。
 権現さんは、この山の下にある御手洗の池に降りて、手を洗っていたと言われ
 池の水が流れる田には、ヒルがいないと言い
 池の底には“法華経”と言う字が納められていると言われる。
 とうごう岩は、ずっと以前この一帯を襲った大地震で山から転がり落ちた……
この話に似た昔話が市内の漁山にもある。 
  慈雲寺のご本尊 聖観音菩薩さま
 言い伝えによれば、むかし
 当地方を襲った大飢饉に、村人は草木も食べ尽くし 
 正に死を待つばかりのところ、突然 1 匹の大白鹿が現れ、人々はおおいに喜び
 よろめく足を踏み耐えて、これを狩りして飢えをしのぎました。
 人々は、餓死を免れたのは御仏の御加護と、お寺に参詣し
 観音菩薩様を仰ぎ見たところ
 御仏の片腕は白色に変じ、台座の下に転がっていました。
 人々は驚き、かの白鹿は本尊聖観音菩薩様の化身であったかと
 今更ながら御仏の広大無辺なお慈悲に涙するばかりでありました。
 その後、幾度も元通りにしようと試みましたが
 再びくっつくことはありませんでした。
 ご本尊聖観音菩薩様は、柔和な顔つきと装いから
 女性的な印象を受けますが、慈悲の象徴を人格化されたもので
 性別を越えて人々の願いを聞き、助けていくうえで
 「三十三の様々な姿に変化して人々を救われる」 と言われています。
「慈雲寺を訪ねて」 の講話資料より 
  穴 観 音
むかし 昔、後野の峠を通り抜けると、そりゃあ清い谷川があってのう。
 それはそれは、きれいな水だったげな。
 ある日のこと
 その谷川の浅瀬で、美しい娘が一糸まとわず、水浴びをしとったんだげな。
 そこへ村の若者が通りがかり、この娘を見て
「なんと言う綺麗な娘だのう」
 若者はヤブの茂みから、じーっと女のしぐさを見とったんじゃ。
 若者は、光かがやくほど美しい娘を
 「羽二重餅、羽二重餅のようじゃ」言うてのう、夢中になっとったんだと。
 すると娘は、若者が見ていることに気付き、恥ずかしそうに、あわてて
 大蛇に化身してのう、谷川の岩穴に、スルスルスルリと入ったんじゃと。
 若者は、ビックリして
「たまげた、どうしたことじゃ」と言うて村へ帰ったげな。
 村の者は、この岩穴を、神として拝みに行ったげな。
 そいじゃけえ
 今でも村の女子(おなご)の下の病によく効く、と言われて拝みに来んさるそうな。
 後野の穴観音は、直径30センチの岩穴で、祠として祀ってあるそうな。
この穴観音、昭和末期の 豪雨と土砂流出により原形をとどめず、確認は困難という。
  歯なおし地蔵
 後野の両間から、佐野の田原や宇津井の小山へ通じる道のそばに
 一本の太い椨の木と一体のお石地蔵様がある。
 むかし、近くの人々は
 歯が痛むときなどにお参りして、痛みを和らげてもらっていたと言い
 花や餅を供えてあがめていたと言われてる。
両間口から田原周に『大きなタブの木とお地蔵様』があるのは、ここだけ。近くの年長者に訪ねたが、『歯なおし地蔵』の逸話について不知。
写真のお地蔵様は60年位前の建立で、お地蔵様から少し離れところに、もっと以前からあったと伝えられる1体のお地蔵様も確認。
 
  雪舟庭園
 後野には室町時代後期、画僧・雪舟が築いたと伝えられる庭がある。
 この庭は、まるで扇を開いたような形をしており
 池が扇の要であり、扇の紙として石が置かれ
 杉やあすなろ等の樹々が扇の先端として植えられていた。
 かなり以前、この庭に立ち寄った安芸・広島あたりの僧侶が
 「この庭は、益田の医光寺などと同じ頃に築かれたものだ」と言ったという。
 この庭のそばの小道にあった石地蔵には
 雪舟庭にゆかりのある文字が刻まれていると言われている。
  み ち 松
 後野の昔の往還沿いにある松は、みち松と呼ばれていた。
 これは後野に限らず、昔の往還沿いにはどこでもあったもので
 殿様が道を行く時、もし敵に襲われたら
 その松を切り倒して防ぐためだとも言われている。
 今はもう、その痕を見ることはできない。
 ⑧ お茶屋床
 昔、後野辻堂の〝さんぼん〟と言う辺りには
 お茶屋床と呼ばれる茶屋があったと言う。
 そこは、近くを通行される殿さんが、しばし休まれる所で
 数本の大きな松があったと言われているが、切り倒されて、今はもうない。
 ⑨ 笹 ヶ 垰
 後野の岡口辺りに、杉や竹の茂った〝笹ヶ垰〟と呼ばれる所がある。
 昔、この峠を通る子ども達に
 『暗くならないうちに、早く帰らないと 怪物が出るぞ』 と教られたと言う。
 
  洗   川 
 後野町の洗川は、ひとっ飛びで渡れる小川であるが
 昔は大きな川であったと言い、人や馬が頻繁に往来するため大きな橋がかかり
 人は橋の上を、馬は川の中を渡っていたとい言う。
その時、馬の足が川の水で洗われることから洗川と呼ばれるようになったと言う。
 また他説に、戦で血に染まった刀を洗ったからだ、という話も伝えられる。
※この川には、以前はシジミが生存していたと伝え聞く。
  榎ヶ垰(えのきがたお) だんち堂 芋塚さん
後野の榎ヶ垰には
お大師さんと大日如来さんの“だんち堂”と、“芋代官顕彰碑(芋塚さん)”がある。
 上ヶ山の集落では、8月のお大師様の月命日に清掃と供養を行い
 御堂前の〝殿様街道〟を往来する人々に供物のおさがりをふるまっていた。
このお堂の裏手には、急峻な街道で渇いた喉を潤す、美味しい水場があった。 
いも代官顕彰碑 (金城町ふるさと学習資料)
飢饉には、越権行為で役所の蔵を開き、豪農・豪商より寄付を募り、私財を投じる等 
身分制度を越えて庶民救済にあたった。 
井戸平左衛門/俗名 井戸明府正明(正朋)公 泰雲院(殿)羲岳良忠(大)居士 ・井戸公碑 ・ 嘉恵碑
享保16年(1731)9月、60歳で第19代大森代官として着任した、在勤は享保18年没までの僅か1年8ヶ月。
石備両群の代官で、石見は大森の代官所、備中は石神郡に官舎を設置。石見・備中・備後・伊予(飢饉時に巡視)を統括。
赴任の目的⇒石見銀山(大林・久喜・大森)の復活と再開発。
  幕府直轄鉱山⇒石見銀山=大林・久喜・大森。備中=生野鉱山(銅?)
  全国の金銀鉱山⇒秋田院内銀山 新潟佐渡金銀山 神奈川伊豆金山 大阪多田銀山 岡山生野銀山 石見大森銀山を含み6ヶ所
サツマイモの栽培
  享保17年4月4日の父の命日に栄泉寺に参拝した折、僧侶 泰永から恐慌に強く、荒地や砂地でも栽培出来て、害虫にも強いと
  云う薩摩の甘藷の話を聞き、手代の伊達金三郎に入手を命じ、60日後、種イモ60㎏を持ち帰り、8・9月頃に植付けたが失敗。
  翌18年、渡津の蘭学医の青木秀清翁が佐賀辺りで〝挿し苗の術〟を習得して帰郷して、其の後(大官没後)は栽培に成功し、
  食の安定に寄与した。
亨年62歳、60歳は当時の平均寿命を越えた高齢。 死因は自刃・自殺・病没の何れか不明。
岡山(美作は養子の実家)の延岡(美作藩の飛地)にて逝去。
井戸公の石碑は県内外で500基以上が確認されている。天領には多いが、渡津地区に限って安達秀清翁の功績ゆえか2基のみ。
北前船の影響もあってか、山陰山陽一円、愛媛、石川等にも点在する。
手代の伊達金三郎 ⇒ 庄原出身の農民で代官の補佐。後に江戸城警護役。任務全う後に帰郷す。
政治とは ⇒ 自然を治める ⇒ 治山治水
石州石碑の文化  かけた情けは水に流し、受けたご恩は石に刻め!
  虫 ヶ 谷
 後野の虫ヶ谷は、高い山が両側にあるため、あまり風があたらず
 田にたくさんの虫がわくことから、このように呼ばれるようになったと言われる。
虫ヶ谷辺りのことを、以前2軒の茶屋があったことから
二軒茶屋」 とも言った。
  後野要害山〝正蓮寺山城〟
後野町にある要害山は、
浜田川をはさんで三宮要害〝三子山城〟と向きあう険しい山である。 
この要害山には、広い屋敷跡や馬場〝正蓮寺山城〟の跡があったと言われるが
今はその痕を残さない。
また、この辺りには正蓮寺と呼ばれる寺があったという。
そして、その広い屋敷跡のどこかに宝物が埋まっているとも言われている。
此の伝承の他に、幕末浜田城自焼落城の時、大きな岩の下に財宝が隠されたとか
落武者が上ゲ山の民家に立ち寄り、脇差と野良着を交換したとも伝え聞く。
  観 音 瀧 
 後野の要害山(正連寺山)にある観音滝の水は、浜田川へ流れ込んでいる。
 この滝は、上中下の三段に分かれており
 むかし、上段の滝のそばに観音堂があったと言われる。
 ところが何かの拍子で、この観音さんは中段の滝に転落されて
 今もなお、滝の底にあると言う。
石見の逸話や民話
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