ふるさと
 石州 後野
後野村史
伊 南 村
【那賀郡誌】大正5年発刊 p326  ・  【金城町誌】平成8年発刊 p478  
 
後野・宇津井・佐野を合せて、自治村を為す時、伊南村と名づけたり。 
其地域の大部分が、古の伊甘(いかみ)郷の南部なればなり。 
後野・宇津井は旧濱田領、佐野は津和野領なりき。
神社には、辻堂大元神社大佐古八幡宮・金口山金口神社が合祠された伊南神社八幡
宮あり。
寺院には、慈雲寺、良昌寺あり。
人物には、岡本與三左衛門、河上仁右衛門あり。
宇津井の炭、後野の竹は昔より名あり。
濱田町に向って薪・炭・野菜の供給をなす。
 
後野 岡 本 氏 
 
遠祖祐時は大中臣氏(おおなかとみうじ)より出で、承和の頃、衛府に出仕し、橘逸勢(たちばなのはやのり)を討ちて功あり。
近江国浅井郡岡本郷に居り燧城(のろしじょう)に拠る。依って岡本を家名としたと云う。
祐時の子、祐顕と正信兄弟は、共に天慶の乱で小野好古に従って藤原純友(ふじわらのすみとも)を討つ。
兄弟石見に下り陣を三隅郷の向野田に構え、純友の残党を討ち功に依って同郡の今
福、三隅向野田、河内中多比山本、来原中坪の諸地を賞賜しせらる。
尚、残党討滅の為に今福に止まり、後に農に帰したが世々土豪以って顕われていた。
正信の後裔である秀宗は、応仁元年7月に三男の秀治の戦功により、三隅豊信(兼連
八世の孫)より領地を給せられ、明応2年3月に池田名の領主となった。
秀宗 五代の孫、俊綱は弘治・永禄の間、毛利元就に従いて功あり。
後野・大迫両名のを得て元亀3年、俊綱は今福の家を長子綱邦に譲り、自らは二男俊
氏を連れて後野の地に別家した。
天正年間、石見守護代の 繁沢(はんざわ)元氏(元就の孫)から、改めて俊綱に後野・大迫の地を
給わす証書を渡された。
岡 本 與三左衛門 俊綱 
其先は大中臣氏より出で、天慶乱の時、小野好古の命に依りて石見に下れりと伝う。
鎌倉幕府紀 小石見郷士に岡本某あり。
室町幕府紀には、三宮の神職 岡本氏 土豪を以てわれ、割據時代となるや三宮三ツ子
山城主として石見の豪族に数えらるる。與三左衛門は此と同族にして今福に居りし者。
毛利氏に仕へて戦功あり。後野大迫両名を給せられ、移りて後野に住めり。
殊に吉川氏の寵を受け、二男千鶴を毛利元就卿の石見守護職繁澤元氏より、孫太郎と改
名せしめられ程なりしが、炯眼(けいがん)なる與三左衛門は大勢を達観して断然剣を投
じて農に帰し、開拓を事とし以って子孫永遠の策を建てたり。
後裔俊信、現に吉川氏よりの文書、其他古器物を保存せり。
(昭和34年の火災で、過っては土居城と呼ばれた屋敷は焼失、土蔵や石垣は浜田道建設で取り壊された) 
後野竹林  字石神に在り。段別四町四段餘、琅玕(ろうかん)の玉簾美しく其名聞ゆ
 
 おひしげる 竹の林は 動きなき 名も石神の 千代榮ゆらん  福 羽 美 静
 石神の 神代のままに 伸び来つつ そのたけ高く 朽ちずくだけず  小 杉 椙 邨
 心むなしき ものなれば 嬉しき節も まさるなり  同    人
        千代も操を かへざれば 雲居高く 伸びぬなり 
 真直なる 竹は雲井に とどくまで いや高々に のび茂るらむ  賀 屋 鎌 子 
沿  革
伊南村は、その大部分の区域が現在の浜田市に属しているが、大字佐野と大字宇津井
は1922年(大正12)までは今福村に属し、1956年(昭和31)金城村へ、その後、昭和
33に金城から分離して浜田への編入をした過去を辿っている。
明治21年当時の三村の 人口と戸数は、佐野村 508人 94戸、宇津井村 416人 78戸、後野
村 811人 153戸、計 1,735人 325戸。
伊 南 神 社
~~以下は金城町誌 伊南村からの抜粋~~ 
両間に在って、金口明神と称え 慶長の社領四斗。 
後に大元神社と称し 村社に列せらたもの。 
応神天皇、天文3申午(紀元2194)11月、河野信貞が後野八幡宮として建立したもので
大迫大明神とも申し、慶長の社領5斗3升。 
明治に無格社となったものを合祭、新社地に移転して村社としたのである。 
伊南村の設置
 伊南村は、1889年(明治22)4月1日に後野村・宇津井村・佐野村を合せて設置された。
 其の後、1923年(大正12)2月11日に分離して、大字宇津井・大字佐野は 美又村・久佐
 村と合併して今福村に、大字後野は石見村・三階村と合併して石見村となるまでの34年
 間である。
 明治21年調査の「合併町村取調書」には、次のように記載されている。
地域の概況 
 
伊南村は那賀郡の中央部にあり。
東は那賀郡美又村・雲城村、北は大金村・宇野村・上府村、南は雲城村、西は石見村と
境を接している。
藩政時代は、後野村宇津井村は浜田藩に、佐野村は津和野藩に属していた。
後野村・佐野村及び宇津井村の概況は、上記合併取調書によるほか、明治9年1月1日付
けで作成された『皇国地誌』によっても知ることができる。
※政府は全国を網羅する「郡村誌」の編纂を企図したが実現せず終焉した。
 
伊南村々章
 1.線の幅は一直線の1/6とす
 1.平行線の間隔は一直線の1/3とす
 1.直線の交叉角度は各120度とす 
 1.平行線内の線端間隔は平行線間隔の1/3とす
 1918年(大正7)村民の公共心及び共同的精神を養成し、兼ねて自治訓練の資に村章を制定された。
伊南村々訓
1、 権利を重んじ義務を尽くせ
1、 公事を先にし私事を後にせよ
1、 力を協せて事に当たれ
1、 業を励み家を興せ
1、 上を見よ身の程を知れ
伊南村々歌
(1) (2) (3) (4)
我大日本 帝国の 島根県の 那賀郡の 浜田町の 稍々東 伊甘の南 伊南村
後野 佐野区 宇津井区と かなに足の 三大字 何れ劣らぬ 農業の 盛大なるは 伊南村
中に聳ゆる 高手山 薪炭用の 森林は 伐れとも 尽きぬ 無尽蔵 村産多き 伊南村
下府川の 清流は 佐野と宇津井を 貫流し 其流域に 米繭の 農産多き 伊南村
村治行政 行届き 信用組合 軍人会 青年団体 婦人会 発展しるき 伊南
教化の中心 三校舎 神職僧侶 有志者と 互に連絡 図りつゝ 教育完備の 伊南村
住民すべて 二千人 勤勉努力 たゆみなく 一致共同 村内の 平和を保つ 伊南村
 伊南村大字後埜地圖 (明治22年調制・浜田市役所蔵)
地域の概要 佐 野 村        
本村往昔某郡某村に属せしことを知らず。
村名を佐野と唱うる由緒不詳。
元佐野村・田原村2ヶ村を明治8年合一して佐野村1村となる。
境 域 東は当郡宇津井村境字大垰山曽根、下来原村境字川平山曽根を界とす。
西は後野村境字岩手口曽根或は谷を境とす。
南は七条村境字下モ山曽根及び出ヶ谷山谷を境とす。
北は宇津井村境字込山曽根を界とす。
幅 員 東西およそ1里、南北およそ1里。
里 程 浜田支庁より東へ2里22町。
東の宇津井村へおよそ16町、西の後野村へ5町、南の七条村へ18町、北の宇津井
村へ12町。
同郡今市駅へ3里。但し村の中央字町尻大橋より里程、かくの如し。
地 勢 たんご坂の山脈全村を囲周し、運輸不便、薪は自用に足る。
道 路 浜田広島街道、
  東の宇津井村境字高下垰より、西の後野村境字岩手口までおよそ20町。
  道幅1間半。
七条村往還、
  南の七条村境字石切より北の宇津井村境字浜井場まで およそ30町。
  道幅1間。
作道、枝道略。
学 校 人民共立の小学校1ヶ所あり。生徒 男40人、女30人。
村会所 隣村今福村にあり。小12区役所なり。
産 物 半紙、楮。
民 業 男女共農を専らとし、紙漉を兼業とす。
河 上 仁右衛門
父は與惣左衛門、其先は近江より川筋(郷川沿岸)に来り。後に上府に移りて割據時代
末、宇津井に住したと云う。
仁右衛門は、大名時代の初めの人にして、気宇闊達膽斗の如く、曾て猿猴と格闘の末、
之を降参せしめ、宇津井の川にては、永久に人を取らざるを誓わしたと云う伝説の如き
其の人物を察すべき好材料ならずや。
また、実質剛健の性を有し、荊棘を排し荒蕉を拓き、地を掘り土を盛り、多年風雨をも
のともせず、自ら痩馬を牽き数町の外より肥土を運び、遂に中原名田地を作れり。
天保寛文年間の人にして庄屋役も勤めたり。
地域の概要          
本村往昔某郡某村に属せしことを知らず。本村名を宇津井村と唱うる由緒不詳。
境 域 東は当郡入野村境字仏ヶ垰山曽根、今福村境字辻堂山曽根を境とす。
西は字込山曽根、字大垰山曽根を以て佐野村と界とす。
 南は字七ッ町山曽根を以て下来原村と境す。
 北は字川打山曽根、字宇野長尾山曽根を以て大金村、宇野村と界す。
幅 員 東西およそ30町、南北およそ30町。面積不詳。
里 程 浜田支庁より東へ3里。
東の今福村へ20町、西の佐野村へ13町、南の後野村へ14町、北の宇野村へ18町。
今市駅へ3里。但し村の中央字土居の下橋よりの里程、かくの如し。
地 勢 東西南北皆連山にして、山間僻村なり。運輸不便。薪・炭自用に足る。
道 路 広島往還、浜田より広島に通ずる県道。
西の佐野村境字高下垰より東の下来原村境入歩まで9町30間。幅1間半。
佐野村往還、南佐野村境字すの谷より北入野村境字仏ヶ垰まで約1里。幅約1間。
作道、枝道は略す。
学 校 人民共設の小学校1ヶ所あり。生徒数 男40人、女30人。
村会所 隣村今福村にあり。小12区役所なり。
産 物 薪、炭。
民 業 男女共農を専らとす。余業なし。
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