石州後野なんめた  
 ふるさと  
 石見国  
自治公民館だより     神社仏閣
 
 
 ふるさ散策   里山の移ろい   転出者とその消息   63災害爪痕死人騒動 
後野芸州街道       浜田藩参勤交代
(いにしえ)の芸州街道は、浜田藩の参勤交代の道。歌にお江戸日本橋七ツ立ちとあるように
浜田藩主の参勤交代も 大手門からの出立(しゅったつ)は、早朝七ツ時(午前45時頃)で、辻堂の茶屋
(二本松)や往還平(射撃場)、佐野の七ツ町などで休憩を挟み、今市の本陣(庄屋)で昼食 
を取り市木までの約10里(4㎞/h程)が、江戸まで概ね ひと月余りの旅路の初日であっ
云う。
県教委発行 島根の古道 参照
13 街道は、浜田川対岸の三宮神社を背に昇ると、浮彫りの地蔵二体ある県道5号線。
14 民家が数軒並ぶこの辺に二軒の茶屋があり二軒茶屋とか虫ヶ谷(むしがたに)とも呼んだ。
小さな橋があるこの周辺を「一の渡瀬」と云い、上山川を渡って山の斜面を登る。
15 榎ヶ垰(えのきがたお)には地蔵堂と元治元年建立の泰雲院殿(芋代官)石碑がある。
16 民家辺りの小字を一里塚と云い、浜田城下から最初の一里塚があったと云う。
17 昔、合戦の時に武将が血の付いた刀を洗ったと伝えられる洗川を渡る。
県道
 
 
明治の頃、この辺りで馬の転落事故があり、慰霊のため建立された馬頭観音がある。
コンクリート階段を登った林の中に石畳の旧道があったと云わる。
18 三本の松があり、茶屋もあったと云われ、藩主一行の最初の野立て休憩所。
19 小学校の近くには地蔵菩薩が一体ある。
県道5号線に出て教員住宅跡地横の脇道をのぼり、江坂の垰(えざかのたお)までの旧街道。
20 江坂の垰は江坂の辻とも呼ばれ、下府方面から七条へ向かう旧街道と交差する。
21 細長い谷間に開けた両間(大迫名)の集落は、どこかしら里山風情が漂う。
22 街道は、県道5号線左下に流れる川の北側にあって、今は薮に覆われ通行できない。
浜田藩領後野村と津和野藩領佐野村の境界、岩手口 (浜田歩兵21聯隊より 浜田-八重可部線 3里)
23 旧道の面影が残る三叉路には地蔵菩薩が二体ある。
24 元禄十年(1690)、津和野藩が町屋作りを許可し、街村があったが明治の火事で離散。
25 通称丹後坂(たんがざか)と呼ばれるこの坂には石畳が残っている。(後野松寿会講演資料を参照)


後 野 【日本歴史大系33 島根県の地名】ほか参照
下府村の東に位置し、東は佐野村、北は上府村。ほぼ東西に通る石見安芸道は、黒川
村境「(いち)渡瀬(わたせ)」から上ヶ山、辻堂を経て江坂ノ垰(えざかのたお)から佐野村に至った。
辻堂には浜田藩主の休憩所である茶屋があった。
中世には、(りょう)(まん)(べっ)() 後野名、大迫名が成立していたとみられる。
元暦2年(1185)6月日の源義経下文(益田家什書)に益田知行伊甘(いかみ)郷小割名、石見に
須本村、良万別符等がある。
当地は伊甘郷や小石見郷、佐野別符が境を接する処で、後野名と大迫名が独立所領か
は不明。
当地両間(りょうま)が遺称地とされ貞応2年(1223)3月日の石見国惣田数注文良万別符に「りや
うまん1丁4反3百ト」とある。
永和4年(1378)12月3日の所領注文写(岡本家文書)に「二百卅文うしろの」や「四
百六十六文大さこ名」等とある。
文明12年(1480)10月26日の岡本定信知行地注文写(岡本家文書)には、小石見郷の
「つしたう名」や、明応5年(1496)3月2日の 岡本貞盛文置(岡本家文書)に「りや
うま孫四郎名」、否定説もあるが否は不詳。
天正17年(1589)4月5日の某氏意書下写(岡本家文書)によると後野と大迫の両名が
 岡本俊綱に預け置かれた。同年と推定される2月晦日の 桂春忠書状写(岡本家文書)
には大迫名と大廻名を記す。
 
後野岡本系譜(県立図書館蔵)によれば、本姓は藤原氏とされ天慶4年(941)近江国
に興り、10世紀中頃に祐顕・正信兄弟が石見国府に来住して、兄の祐顕は石見国府に
残り石見国大祭天石門彦神社(通称三宮神社)の神職となった。後に国人領主化して
嘉吉 3 年(1443)には岡本出雲守信貞が三子山城を築城した。戦国期には福屋氏に従
い、毛利氏の福屋氏攻略後は毛利氏の傘下に入った。江戸時代末期、石見国那賀郡七
条村庄屋の岡本甚左衛門は祐顕の遠祖でもある。 弟の正信は今福に所領を得て国人
領主化し益田氏や三隅氏に従った。戦国時代には、岡本恒数や子の俊綱は所領の近い
石見吉川氏を通じて毛利方に従って軍功を挙げ、後野名・大迫名を与えられて、俊綱
自らは家督を長子の綱邦に譲り後野へ移ったという。毛利氏が関原の戦いに敗れ、
吉川氏も周防国岩国に移封されると、俊綱は所領であった後野で帰農し、其の後
の子俊氏は、旧岡本家を二分して大迫名に別家の岡本家を建て、後野名を長男の俊
次に与え、次男の綱次を伴なって大迫名に移り隠居したと云う。爾来、後野名の岡本
家は徳川江戸時代・明治時代を経て大正・昭和時代に至る。


[中世] 後野名
戦国期にみえる名田名。石見国那賀郡のうち。
天正17年4月5日の「岡本家意証文」(岡本家文書新県史資料編Ⅰ)に「後野大迫
両名之事禄々永代預置候」とある。
「旧県史6」によれば、これより先の弘治永禄の頃、岡本俊綱は福屋攻めで吉川氏を
助け功ありて、後野佐野来原の荘官に任ぜられたという。
後野名は黒川村、大迫名は佐野村に接していたと推定される。
後野名と大迫名は、ともに那賀郡後野(現後野町)となる。
[近世] 後野村
江戸期から明治22年の村名、那賀郡のうち江戸期を通じて浜田藩領。原井組に属す。 
村高は、石見国高郷村帳では360余石、天保郷帳では458余石。 
金口神社大佐古八幡宮(大迫大明神)辻堂大元神社の三社を大正6年に合祀し、  
「伊南神社」とした。
臨済宗慈雲寺は、応永年間の開創、寺領4石5斗。 
広島街道は、黒川村一の渡瀬から上ヶ山峠、江坂峠を経て佐野村境岩手口に向かう。 
この道は浜田藩主の参勤交代道で、字辻堂に藩主の休息場があった。 
上ヶ山に、元治元年の泰雲院殿(甘藷栽培の恩人 井戸平左衛門)碑あり。 
明治初期の戸数は15、人口803、牡牛101、牝牛1、牡馬4(皇国地誌)。 
同7年、もと郷蔵に後野小学校を開校。 
同22年、戸数153、人口811、同年 那賀郡伊南村の大字となる。


土 居 城  城主 岡本式部少輔 
藤原氏 岡本祐平 祐顕祐貞(正信)天慶4年石見に来り。
 五世 岡本恒数 俊綱
 城主 岡本與三左衛門
其先は大中臣氏より出て慶応乱の時、小野好古の命に依りて
に下れりと伝う。
鎌倉幕府紀小石見郷士に岡本某あり。
室町幕府記には三宮の神職岡本氏、土豪を以て顕われ、割據
時代となるや三宮三子山城主として石見豪族に数えらる。 
與三左衛門は、此れと同族にして今福に居りし者、毛利氏に
仕えて戦功あり。後野・大迫両名を給せられ、移りて後野に
住めり。殊に吉川氏の寵を受け、二男千鶴を元春の元氏より
太郎と改名せしめられし程なりしが烔眼なる岡本與三左衛門
は、大勢を達観して断然剣を投じて農に帰し開拓を事とし、
って子孫永遠の策を建てたり。(那賀郡史参照)  石見軍記


後野周辺の山城跡   正連寺山(しょうれんじさん)    高手山(たかてやま)    城平山(じょうびらやま)
三ツ子山城   三宮 岡本出雲守(甚左衛門遠祖)が1443年築城。
潰 城   県道五号線バス停〝(つえ)〟の裏山。
正連寺山城   三宮神社(三ツ子山城)向い、浜田川対岸右に要害山。
高手山城   山麓は 佐野の田原境から西の上府境にと後野広域。
小山城   県道五号線バス停〝両間口〟より北へ、小山有り。
城平山城   高平(慈雲寺山)の続き。


土 居 城・高手山城
後野の岡本氏に関する研究
小野武夫著 日本兵農史論  第三論巧 石見に於ける『名』の遺制
城主 岡本式部少輔土居城跡   浜田ジャンクションから眺める高手山
後野町が「後野名・大迫名」と呼ばれた時代より昭和34年12月23日まで存在した 高手山は、浜田城山下の国道9号線、浜田バイパスからも確認することが出来る
県教育委員会の調査報告書には、後野の高手山城、その近隣に点在する正連寺山城や
三ツ子山城、潰城、小山城などの城郭調査結果が掲載されている。 
高手山城跡 高手山々林 明確な遺構なく所在不詳
正連寺山城跡 正連寺山々林 丘陵頂部 郭腰郭
潰城跡 山林 丘陵先端
小山城跡 明確な遺構なく所在不詳

10世紀中頃、岡本(出生地近江国浅井郡岡本郷の藤原氏)祐顕正信の兄弟が石見国
国府に来住。
祐顕は、後の三 子山城出雲守城主の三宮神社神主家や、下来原庄屋甚左衛門の祖で
もある。
正信は今福に土着し、正信五世 恒数の子 俊綱は、戦国期の天正17年4月、福屋攻めで
吉川氏を助けて軍功を挙げ、後野佐野来原の荘官に任ぜられたと云う。
俊綱自らは、家督を長子の綱邦に譲り、今福から後野名の土居城に移り、後野名・大
迫名内の開墾に尽力する。
其の後、俊綱の子俊氏は、旧岡本家を二分して大迫名に別家の岡本家を建て、後野名
を長男の俊次に与え、次男の綱次を伴なって大迫名に移り隠居したと云う。
爾来、後野名の岡本家は、徳川江戸時代明治時代を経て大正・昭和時代に至る。

 岡本俊綱は、近世後野村庄屋や伊南村、浜田市の要職を務めた岡本家(屋号・薮土居)の初代。
石見軍記に「土井城」と記される岡本家屋敷は、昭和34年12月の火災で焼失した。
後に焼失を免れた門は黒川に、土蔵は宇津井町の河上家に移築された。
土居城跡地は、浜田道の後野トンネル工事で埋立てられた。
県道5号線 バス停 『薮土井』 の傍に往事を偲ばせる墓所がある。


岡本 俊人 氏 元浜田市長 名誉市民   旧伊南村議、浜田市議を経て、昭和22年5月、初の公選で市長に当選。
明治8年11月2日生まれ   献身的な仕事により港湾の整備拡充、交通網の開発など、浜田市の発展に大きく寄与した。
  伊南村は、1889年(明治22)4月1日、   伊南村史
  後野村・宇津井村・佐野村を合せて設立。
inserted by FC2 system